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白 河 夜 船

 ​

                        な ん と な く

                             あ れ こ れ

​    第一夜

    蛍

   20170314

  左(モバイルでは上)一昨年夏にpixivに投稿した『月見草』)

未知領域を悪用する右のしたたかさと

それをオカルトと嗤う左の油断

「共感覚キラキラッ☆」と言えてるうちが華なのかもしれない

 もう右翼も左翼もどうでもいい、てな心境になりがちな昨今でありますが、ネットでの左派文化人・評論家・知識人の発言には、あいもかわらず「人の心が判らない」ものが多いなー、とつくづく思います。

 科学的に立証されたものしか信じない・・・のは別に構わないんですけど、「教条のために」「思想のために」、埒外のことをせせら笑い、馬鹿だ馬鹿だと言って高所から見くだす姿勢が、どうも左翼の先生方には多い気がします。

 当の左翼の先生方はインテリが多いので、馬鹿だと言われるのをひどく嫌がります。

 それでいて、教条に合わない人のことを馬鹿だと言い放ちます。

 これは、昔から左翼系文化人の特徴なんですけど、今でもまだそうかー、と、なんだかやるせない気分です。

 言っときますけど、あたしゃ左翼そのものを批判する気はありません。

 左翼運動の、「人は皆平等であれ」「弱い者を救え」などのテーマは絶対的に正しいと思っています。

 つーか、こんなことに正しいもへったくれもなくて、正しいに決まってるんです。

 まともだったころの右翼も、左翼運動のそういうところには賛成してました。

「実現できるのならそれは大賛成だ、だが現実的にいろいろ壁があるから、そこらへんの調整を右翼は考えてる、それだけの差であり、社会を良くしようという想いに右も左も関係ない」

 ・・・という主旨のことを、昔は多くの保守政治家も言ってました。

 だから今、左翼の人で、こじらせてない人、教条主義に脳ミソ冒されてない人は、どんどん運動をやったらいいです。

 左翼が警戒すべきは右翼ではなく、教条主義に冒された左翼文化人です。

 たとえば、誰かが不可解な行動をとったとき、それを見て、

「あの人はどうしてああいう行動をとるのか」

 という想像をめぐらすことができず、ただひたすら「先生」と呼ばれる人や、発言がもっともらしい人にくっついてばかりいて、

「先生! さきほどのご発言は、◯◯思想の△△主義にもとづく、これこれこういう解釈でよろしいのでしょうか」

 なんて、いちいち訊いてばかりいる頭でっかちな人(でも脳は低性能)。

 そして、そういう金魚のフンに対して、手垢のついた教条講釈を嬉しそうに垂れてる人。

 めんどくさい左翼。

 いわゆるヘサヨね。

 

 ・・・で、本稿はそういう、人の心を理解せず教条にすがるヘサヨを批判するものなので、普通の左翼人は安心して読まれたし。むしろ応援してるし、私自身リアル社会で運動してるし。

 でも無理して読まなくてもいいですよ(笑)。

 そうそう、左翼がああだからといって、右翼がマシだなんて一寸も思ってないです。

 ここ数年の右翼は、ただの排外主義者が増え、おかしなことがいっぱいあります。

 

 私は

「伝統を活かして未来を築く」

 ことを良しと思ってるので、これは右翼の考え方ですから、私はそういう意味で右翼ですけど、右側言論人の現状は、左側に負けず悲惨であります。

 

 まあ、そこらへんを考えていたら、ずいぶん心が疲れてしまったので、もうどうでもいいと思おうとはしてるんですけどね。

 完全には吹っ切れませんね。

 ・・・で、

 

 私は、現政権に賛同できるところと、できないところがあります。でも、全体的に現政権は、荒っぽく極端であり、しかも原動力となっているものが「左翼への怨念」です。 

 怨念の溜まったところに幸福は来ないので、そういう政治のあり方はよくないです。

 というわけで、今こそ左翼には頑張ってほしい、左右の対立などやめていっしょに頑張ろう、とリアル社会で訴えてきました。

 そういう活動を通して、

「どうも左翼文化人は、昔から『人の心が判らない』傾向を持ちっぱなしだなあ」

 という感想を持ちました。

 庶民のことを、機械か何かのように思っている部分が、彼らにはあります。

 70年代の過激派時代から、左翼文化人はそうなのですが、当時の人はほとんど引退しておられるので、この傾向を「持ちっぱなし」というより、「受けついでしまっている」というほうが正確でしょう。

 肉親に戦死者が多く居る私が、特にうんざりしたのは、

「特攻隊は犬死にだ犬死にだ」

 と繰り返す弁護士さんです。

 嫁さんの家系も、うちの家系と同じくらい戦死者が多いので、この先生の発言を読んで、一生懸命泣くのをこらえていました。

 そりゃあね、先生に言われなくても、遺族は心の深いところで、そんなことは判ってるんです。

 でもそれを認めたら悲しくて悔しくて、家族全員の心が壊れてしまいそうになるから、「無駄死にじゃないのよ、彼の死の上に今の平和と繁栄があるのよ」

 と、涙ぐみつつ互いにかりそめの納得をしようとしてるんです。

 そういう家族たちと、

「特攻死は名誉だ、他の者も続け!」

 と叫ぶ人とは、別人です。

 断言しますが、全ての特攻遺族は

「二度とうちのような犠牲者は出さないで!」

 と願っています。

「死んだ特攻兵に続け」なんて思ってる遺族は一人もいません。

「彼の死の上に今の平和があるので、無駄ではなかった」

 という考え方は、せめてもの自己慰撫、相互慰撫です。

 ごく内輪で、家族の中とか、せいぜい仲のいい隣近所とかで「お国のために亡くなったんです、無駄ではありませんよ」と慰め合う程度です。

 「お国のため」という言葉は、遺族同士が悲しみを和らげるための方便であり、本気の本気で「お国のためになった」と思ってやしません。

 そのへんは、遺族の心の中では、ぼんやりさせておくものです。深く考えられる心理状態じゃありません。

 内輪内輪の相互慰撫くらい、こっそり、させてくれてもいいじゃありませんかねー。

 何も公共の場で、大勢の前で「うちの肉親は名誉の戦死を遂げたのです!」なんてわめいたりしませんよ。

 ・・・こんな突き当りのところまで、言わなきゃならないほど、「心を察する」デリカシーがなくなっちゃいましたね昨今。

 こういうことは本来、左右とも、それとなく察して、

「言わせてしまったら悲しい」

「言ってしまったら泣いてしまう」

 と、黙っておくものです。

 でも、左翼の先生は察してくれません。

 片や右翼の言論人にも、本心から英霊を敬ってる人がどれほどいるのか、怪しいものです。

 ・・・が、遺族としては「悪用されてると判っていても『無駄死にではなかった』と言ってくれる」ほうになびくのは当たり前です。

 もちろん、左翼の先生が遺族を「責めている」とは全く思いません。

 彼らは彼らなりに、何らかの想いを寄せてくれているのでしょう。

 

「肉親が犬死にであったと認め、そうさせた政府を批判し、二度と愚行を繰り返させないよう監視して、平和を願うべきである」

 という意思は、彼らの発言の中から読み取れます。

 一生懸命読み取ろうとして、やっと読み取れます。

 ふつう、そんな疲れることしません。また、読み取れたとして、誰がそんな小難しい教条的理念を持ちますか。

 

 私はうつ病持ちで、他の身体的疾患もおととしいっぱい出て、いま、ろくすっぽ稼げてません。だから「ごくつぶし」です。

 でも精神科医に「あなたはごくつぶしです」とあからさまに宣告されたら、かなり傷つきます。

 弁護士というのは人の心を判ってナンボというお仕事。いわば心の専門家であり、うつ病に対応する精神科医と同じ関係性にあります。

 特攻死は犬死にだ、と弁護士さんが発言する(それも繰り返し)行為は、精神科医が診察のたびに鬱病患者に「ごくつぶしだと認めよ」と迫っているのと同じで、はなはだ人の心に疎く、デリカシーが全くないといえます。

 

 ほかにも、こういう人の心が判らない先生方による、ひどい発言はいっぱいあるんですが、挙げてると悔しくなるので、やめます(と言いつつ、私はウジウジした性格なので、いずれ書くと思いますが)。

 心が判らない、と書きましたが、ああいう先生方はあまりにも「教条」にすがりつきすぎて、「心」そのものの存在を忘れちゃってるんじゃないか、とすら思います。

 あれじゃあ、仮に将来、左翼政権が誕生したとして、マイノリティの心が判りますか。

 無理ですよ。

 彼らは「マイノリティは悪いことしてない」という「教条」に沿ってモノを言ってるんですもの。

 

 マイノリティはマイノリティであるがゆえの悪いことをするときもある・・・人は皆同じであるのに、その人たちがやむにやまれず、悪いことをせざるを得ない心理に至るのはなぜなのか・・・

 そこに想いを馳せ、マイノリティの心の奥からの叫びを聴いて、社会の根底部分を改善していくためには、「するはずがない」という教条至上主義では、だめなんです。

 どうもそのへんの領域は、「するはずがある」と思えている右側のほうに分があり、でも今の右側はせっかくのその理解力をあえて発動せず、マイノリティ排除をやりたがっているという、パラドックスがあります。

 それから・・・

 科学で立証されてないものを、すぐに

「トンデモ科学だ、オカルトだ」

 といってせせら笑う傾向も、あの先生方に多いですね。

 いま右翼が、未知領域の学説を悪用して、保守思想の武装をしつつあるので、左の先生方は余計そういうものに神経がささくれ立っているようです。

 そして、その学説の出どころ、根拠として大元にあるものが、本当にトンデモなのかどうか、見きわめずに嘲笑してるケースもかなり見受けられ、これはいけないと思います。

 特に「意識の力」のようなものは、左側からの攻撃にあいやすいです。

 かつて日本軍が、精神主義を掲げ、天皇神格化をしながら、外国へ侵攻していったため、どうしてもそのたぐいの「意識力」に反発してしまうのでしょう。

 けれども、本当に批判すべきことがらは、右翼が「学説を悪用していること」です。

 「学説そのもの」は、別段トンデモではなく、むしろ有意義な未知として研究していくべきものではないのか? と思わされることが結構あります。

 たとえば「経血コントロール」がそうです。

「昔の女性は経血の排出を意思でコントロールできた」という学説です。

 これを、今、右翼の一部が

「現代女性は生理を理由に、会社を休みたいなどのわがままを言う。昔の女性のようにコントロールせよ」

 と悪用しているので、左翼方面では「差別だ」「トンデモ科学だ」と騒がれています。

 この右翼の謂い自体は、そのとおり大変な差別で、女性にとってひどい言いがかりです。

 けれども、その学説にまで敷衍して「トンデモだ」と断じるのは、おかしいです。

 この学説を、右翼の人がどこから持ってきたか、だいたい想像がつきます。当サイトでもリンクさせて頂いてる共感覚研究者、岩崎純一さんの著書からでしょう。

 もちろん、岩崎さんは女性差別的な意味でこの学説をお書きになったのではありません。

むしろ彼は、DVなどの逆境で心に傷を負った女性たち(男性も)と交流を持ち、精神的救済の助けとなる活動もしている人です。

 また、私も明治生まれの花柳界の女性から、

「若いころは経血コントロールができていた」

 という内容らしき話(当時私は小学校高学年か中学生くらいだったので「ああ、この話は経血のことなんだろう」という程度に把握)を複数聞いたことがあります。

 お座敷や舞台という、変更のききにくい仕事をする彼女たち、今のような高性能な生理用品がなかったころの芸者さんや舞妓さんは、昭和に入ってからも割とそういうことができたようです。

 言わずもがなですが、経血コントロールは、右翼の人がいうような「女性のたしなみ」でもなければ、左翼の人が捉えているような「精神主義のトンデモ科学」でもありません。

 人間以外の動物の多くは、生理の周期を必要程度にコントロールし、それを何らかの方法でオスに知らせます。

 共感覚は、人間が現代より野生動物に近かったころの感覚(という視座で捉えてさしつかえない)です。

 なので、今よりはるかに多くの人が共感覚を持っていた明治中期まで、女性に経血コントロールの力が存在し、男性側もそれを無意識に察知できていたのではないか、と考察するのは、政治的でもなければ精神主義でもありません。

 日本では研究が立ち遅れていますが、今や共感覚は、高等な哺乳類が持つ能力のひとつで、世界的に研究が進んでいます。

 共感覚は、日常の意識にあまねく現れるのですが、種(しゅ)の存続という大きな命題にかかわる生理の周期--月経⇒排卵期(受精しやすい時期)⇒月経--に、かなり強く表出するはず・・・と考えるのは当然です。

 広大な密林にパラパラとしか生息しない希少種のけものが、なぜ排卵期になると雌雄で出会えて、合理的に受精しやすい交接ができるのか。

 人間も同じことができていたのではないか。

 その名残りなのか、現代でも、母親のそれを共感覚的に感知する幼児はかなり存在します(成人後も遺残する人も稀に居て、発信と情報交換が始められている)

 それを「むかしは大人でも出来たのではないか」というところまで敷衍しなければ、人間も動物の一員なのだというところまで行きつけますまい。

 念のために補足しますが、私は経血コントロールを「トンデモ学説だと思うな」と言ってるんじゃありません。

「右翼言説の中に出てきたからトンデモ学説だ」という捉え方が早計に過ぎるということです。

 大元の出どころを読んで主旨を理解した上で、それでもなおトンデモだと思うかどうかは、当然ながら各人の自由です。

 えーと・・・

 さてハヤ・・・

 本稿自体がトンデモだ、オカルトだと感じる人もおられると思います。

 そう思われても構わないという立ち位置でこのサイトをやってるので、このまま進めます。

「オカルトだと思われるかもしれないが」などの予防線も、めんどくさいのでもう張るのやめときます。

 ・・・で、左側の人が経血コントロールよりもさらに嘲笑してるものに

「意識力でオスプレイが落ちた」

 という右側の言説があります。

 はじめに念を押しておきますが、このあいだの沖縄でのオスプレイ事故は、ヘリパッド反対派の意思で落ちたものではありません。

 私が「うわー、これは・・・」と頭を抱えたのは、そこじゃありません。

 めんどうなので箇条書きにしますと、

●意識は電子機器に影響する

●電子機器満載の軍用機が、膨大な人数の反対意思によって操縦が狂わされることは考えられる

●ただし米軍はそれを見越し、現代の軍用機には防護電装が施されている

●アメリカが有名大学群に共感覚や心霊科学の研究予算を充分に与えているのは、こうした軍事利用のため

●日本はそれらの研究予算がまるでつかず(※)、大多数の人々は関心がないか、あっても「共感覚キラキラッ☆」と言っている状態で、研究者としてはツライ環境ではあるものの、キナくさい転用を考えている米に比べればこのほうがマシ、というか、今のうちが華なのかもしれない

●以上のような「意識力の軍事利用」は、世界の精神学界・心理学界で少しずつ謂われはじめているものの、日本ではまだ話題になることが極めて少ない。しかし、かかる沖縄の事故で、冗談半分なのかもしれないが右翼側から「意思で落ちた可能性がある」という言説が出たことは、いまの好戦的な右翼情勢からみても憂慮すべきものだ

●未知なるエネルギーを左側がせせら笑っている日本では、もしその研究がなされ始めた場合、左側がマトモな監視機能をはたせず、またたくまに米国のような共感覚・心霊科学の軍学共同体制が作られてしまう

・・・・てなことです。

※= 米ソ冷戦時代、西側先進国群が通信・諜報手段として超能力(特にテレパシーと透視)の研究を本格的にはじめたとき、日本の郵政省(当時)にも「未来の通信手段のひとつとして」という名目で、申し訳程度ながら研究予算がついたことがある。ただし本当に研究されていたのかどうかは不明。誰かの懐に入っちゃってたような気がする

 意識が電子機器に作用する(感情が高ぶったときPCが激しく誤動作したり、家電品がON・OFFしたりする)ことは、私を含め強度共感覚者や精神疾患者などに広くみられます。

 こう書くと「じゃあやって見せろよ」とドヤ顔で言う「常識至上主義」の懐疑派が、かつては右側によく居ました。

 が、昨今では左側から突っつかれそうです。

 やって見せろ、といわれたら、私は「たぶんお見せできません」と拒みます。

 別のページでも書きましたが、こういうのは精神現象ですから、夢と同じで、「やれ」と言われて「ハイこの通りです」とご披露できる種類のものではありません。

 それでも、たとえば「飛ぶ夢をよく見る人」は、スタジオでご期待通りの夢を見られなくても、その人はどこまでいっても「飛ぶ夢を見やすい人」なのです。

 かつて超能力や心霊ブームのとき、本物らしき人ほどスタジオでの実験がうまくいかず(衆目の中では成功しないほうが普通)、インチキだー!と排斥されました。

 そうして、せっかくの未知領域のドアキーをつかみ損ねた歴史が、日本にはあります。

 まあ、そこらへんはまた折を見て述べるとして、ともかく「意識」は従来の概念を超え、未知なる大仕事ができる、という可能性が科学的に着目されています。

「意識」が電磁的なものであり、それをエネルギーとしてモノを動かすことができることは、昨今開発された、思念で動かす筋電義肢をみても判ります。

 が、体外に出てまで仕事できているかとなると、できているとする現象は多々あるものの、まだしっかりしたエビデンスが立てられない、という段階です(正確に言うと日米共同研究によって、エビデンスもある程度立てられている)

 ただ、現象だけはどんどん現れていて、ちょうど「生まれ変わり」の事例--なぜなのか分からないけれども疑いようのない現象が続々とカミングアウトしている--のような状況になりつつあります。

 ともかく、意識の力は体外で仕事します。それを将来的に悪用させないためにも、みだりに嗤う姿勢はよくないです。

 私は意地が悪いので、さっきの

「特攻死は犬死に」

 というアレの反論を、

「意識は死後も残り物理的に仕事する」

 の視座で試みます。

 特攻隊の魂は蛍になって招魂社に帰ってきているのだ!

 そして日本国民がその魂たちを慰霊したおかげで、日本は戦後の発展と平和を得たのである!

 左翼人にはすごく嫌がられる書き方ですが、たとえこういうことでも

「ありうるかもしれない」

 と興味を示せる心の余裕が、未知の分野を右側に持って行かれないために必要だと思います。

 オカルト云々の予防線ナシで書きつづけますが、神とは人の心の集まったものです。

 生きてる人の魂も含みます。

 心は無意識レベルで相互に干渉し合っています。

 いま覚醒中の私たちと同じなのですから、どこそこで会おうと約束しておけば、そこで会うことができるでしょう。

「蛍になって」は当時の軍の文学的表現でしたので、実際には昆虫にはならないでしょうが、肉体から離れた後の「待ち合わせ場所」として、九段の招魂社を約束しておいたのは理にかなっています。

 ただし、あくまでも待ち合わせ場所なので、神社仏閣を自罰他罰的なほどありがたがる必要はありません。

 魂は私たちと同じところに居る(距離を超える)と思って差し支えないです。

 ・・・で、人が魂になっても別段偉くなるわけでもないし、私たちと同じ「心」なのですから、褒められたり認められたりすれば嬉しいし、やる気も出ます。

 なので、英霊に温かい言葉を掛けることはとても良いことです。

 実際に、

「あなた方の死は無駄にしませんよ、だからどうか日本を見守っててください、平和で豊かな日本にしてください」

 と多くの国民が想いをささげたため、そういう方向に日本国全体を誘導することが出来た・・・のかもしれないのです。

「犬死にだ」

なんて言う人や、

「あとに続く覚悟を」

なんて言う人は、神様に嫌がられるでしょうね。

 ・・・と、私も死んだことがあるわけじゃないので、こんなの確証があって書いてるわけじゃありません。

 が、ただ、人の心が無意識下で相互に関わり合っていて、それが世界の流れに作用している、という考え方(ユング式ですね)は、大真面目にいま、世界で研究され始めてます。

 ほんで、さっきの件と同じく、これも米国は軍事転用を考え予算湯水なわけですが、そこにはシタタカサだけではなく、

「ばかばかしく思えることでも笑い飛ばさず興味を持ってみる」

 という心の余裕が大きく存在しています。

 再度念を押しますが、こうしたトンデモっぽいことを批判するとき必要なのは、

「それが戦争屋に悪用されたとき、その曲解ぶりをあばく」

 姿勢です。

 右側がそれを悪用しはじめたとき、「坊主憎けりゃ・・・」の伝で、大元になっている思想や概念をせせら笑うことは不毛です。

 そんなふうに嘲笑していたら、もしもそれがトンデモではなかった場合、将来的にそれを相手側がほしいままにするスキを与えてしまうことになります。

 そしていま、いちばんそういう局面に差し掛かっているのが「意思の力」です。

読了感謝。

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